昭和49年01月18日 朝の御理解



 御理解 第83節
 「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてることはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我慾はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」

 極端に申しますと、宝くじが当たったと言う様なおかげを、おかげの様に思うて居る人が沢山あることです。がっぱりがっぱり儲かる。そこで宝くじを引き当てた人達の、その後と言った様な事を、よく週刊誌なんかで取り上げておりますけれども、それで本当に助かる元になったと言う様な人は、本当に無いようですね。その為に家庭の騒動が起きたり、とんでもない事に手を出したり。兎に角一年に分限現者になると云う、おかげ急ぎと言う事。おかげ急ぎをしたからと云うて、おかげが頂ける訳じゃない。
 今年こそは今年こそと、例えば思うてもです。幾ら思うたからと云うて、一年に分限者になると言った様な事が思うたからと云うて、出来る事じゃない。問題はそういう心掛けでは本当の信心は出来ぬぞと、教えておられるんだと思うんです。その心掛けが神様の心に叶わんのだ。所謂濡れ手、粟の掴み取りと言った様な、如何にも結構な様だし有り難い様ですけども、決してそれは本当のおかげには繋がらない。
 これはですね、例えば濡れ手で粟の掴み取りと、言った様な事ではないに致しましてもです。私は本当に分限者と言う事は、分限者の徳と言う事は、本当に助かると言う事だと思うんです。昨日合楽会で皆さんに、聞いて頂いた事ですけれども。世の中に難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれと天地の親神様は、金光大神にお頼みになっておられる。そこで難儀な氏子と言う、取次ぎ助けてやってくれと、難儀から開放され、難儀から本当の助かりを得て居る者がどれだけ居るだろうか。
 金光様の信者は沢山おるけれども、いや金光様の先生は沢山おるけれども、その金光様の御信心を頂いて居る者がです、日々お取次ぎを頂いて、御願いをしておるけれども、取次ぎ助けてやってくれと仰る、取次ぎを受けて助かって居る者がどれだけ居るだろうか。お道の教師の中に、本当に助かって居る者が、どれだけ居るだろうか。それを思うと天地の親神様の願いというものが、金光大神を通して、どれほど成就して行っておるだろうか。本当に相済まぬこと。
 そこでお道の教師を特に志した人達自身がです。本気で取次ぎ助けられる、又取次ぎ助けられておる状態と言うものがです。是は一番確実な事は難儀な氏子が助かるじゃなくて、自分自身が助かる事。自分自身が難儀な氏子であるという自覚に立ってです。自分自身が助かると言う事は、是は一番間違いの無い事なんです。そこに自分自身がより愈々助かる事になって来る時にです、私が助かって居るおかげを頂いておるという。それが天地の親神様の願いが、あなた一人の上に成就する。
 他人の事じゃない、自分一人の上にです。そこん処の焦点を置かなけれいけない。人じゃない家族の者じゃない、信者じゃない先生あなた自身が、家族で言うならばお参りしとる、信心をしておるあなた自身が助かる事に精進させて貰うて、この行き方でいけば助かる、いや助かっておる自分というものを、有り難いと思うた時に、天地の親神様の願いが、あなたの上に成就したと言う事になる。
 先日から福岡の東さんの例を以てお話ししました様に、あちらの家内が特殊学校に行く気になれと。自分自身が屑の子の自覚と言うものが、本当に出来て来て自分が不自由な心の状態で、心の不具者である自覚に立った時に、特殊学校へ行って人並みに動きがとれるような心の状態というものを頂かにゃいけん。ここは合楽の教会は特殊学校なんだ。ここにお引き寄せ頂く者はみんな屑の子なんだ。
 その屑の子の自覚に立って、自分自身が助かると言う事に目指しを置いて、信心の稽古をさせて頂く時に、自分の助かっておる姿が日々感じられて来る。昨日ある方がその前の日に私が愈々本当なことから、本当な事を求めていくと、昨日の事は嘘と言う事になる。より本当なこと、今日の事も明日になると、又より本当な事が判ると言う様な意味の事を云われたのですが、先生そんなら昨日のとは嘘でしたかと言う様な意味のお伺いを、昨日された方があったんです。
 だから是は厳密に云うてそうなのであって、例えば一年間なら一年間、○○さんあんたが毎日、日参をしよるから一年間経ってみてご覧、判るだろうがと私が。去年のあなたと、今年のあなたと言うたら、物の見方、考え方が変わっているだろうが。それは厳密に云うたのであって、日に日にさらと、三代金光様が仰っておられたがです。日に日にさらな物が出て来ると言う事が、昨日の事は嘘であって、今日頂いておる事が、より本当だということになる。
 今日頂いておる事よりも、明日頂く事は、もっとより本当なことになるだろう。そのもっとより本当なことを目指せて貰うというのですから、とてもそれが一年、二年、三年で、私は頂けるとは思えない。だからそういう信心が身について来る。まず自分自身が助かる。これが一番間違いの無いこと。そこに天地金乃神様の願いというものが、私の上に、成就することになる。それにイライラしたり、腹が立ったり情けなかったりという、自分であるとするならです。理屈の上には、そうではない。
 はぁここで腹立てちゃいかん事もわかっとるし、是は確かに神様の神愛の現れ、で有る事がわかっとるけれども、それを神愛として受け止めきらん。腹を立ててはならんと思うけれども、腹が立つと言う所に、自分の助かっていない姿を求めさせて貰う。そこから本当な事がより本当に解って、それが和賀心が段々段々本当なものになっていく。それを目指させて頂いてこそ、ここに氏子が一人助かったと、金光様あなたのおかげで是だけは確実に助かって行きよると言った様な事を。
 昨日合楽の方達に、聞いて頂いたんですけどね。難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれと、そんなら取次ぎ助ける先生自身がです、あなた自身が助かっておるかと。そんなら取次ぎ助ける段じゃない、取次ぎ助けられなければならない、あなた自身が。そこから昨日の御理解を頂くとです。助かっておる者の、雰囲気と云うか、そういう催しに催された、一つの環境とか、又は、その周辺の事情と云うものがです。何とはなしに自分の助かりと云うものが潤うて来る。
 そこで家庭の中も円満になって来る。自分の商売なら商売の地盤の上にもです。昨日福岡の川上さんが言っておられましたがね、先日からある自分の知り合いの方に、着物を作りたいと云う人が有ったから、嘉朗さんに紹介をした。自分も作っておるけれども、まだ支払いが出来てない。けども今の私は神様にこうやって、毎日打ち込んでいるのでから、あなたにお払いが出来んけれどもと云うて、本当に相済まん事だったけれどもです。他のお客さんを紹介した。
 それで少しは気の毒かったつが、少しは楽になったと云うような話をしてます。そしたら紹介を受けた、お得意さんが言われるのにです、本当によか呉服屋さんを紹介して頂いて良かったと云うて、わざわざその喜びをお礼に来なさったち言う。例えば梅屋嘉朗店という、信心の雰囲気に催された店があるとです、本当に梅屋さんに紹介して頂いて良かった、有り難かったと言う様な雰囲気がです、お得意さんの上にも潤うて行かなければいけない。勿論それは家庭には尚更の事である。
 家の親父は信心はするけれどもと云うて、嫁御が反対するようでは可笑しい。はぁ家の取引をしよる、何々屋さんというのは、とにかくこすかこすかズルかズルかと言われる様な事で、良いものが生れて行く筈は無い。自分自身が助かってないから。完璧に助かると言う事はともかくとして、助かって行きよる雰囲気と云うものが、仕事の現場に現れて来なければいけない。はぁ何とはなしに違うと思いよったら、金光様の信心しなさるげなと云うものがなからなきゃいけない。
 そういうものがですとても私は、一年二年で出来るとは思はれない。そういうものが段々自分が助かって行く、本当な事になって行くに従って助かる程度助かって居る程度に、おかげと頂いて行くと言う事が、一文二文と云うて貯め上げて行くのではないかと私は思うです。自分の信心の受け物も無いのにガバッとおかげを頂いた。頂いたおかげでです、却って信心も出来んという人が沢山ある事です。是は私は一年遅れて分限者になる気になれと言う様な、信心の心掛けの根本の処を間違えておる頂き方だと思うです。
 おかげを頂けば頂いたでそのお礼の信心が、愈々出来て行くという信心にならなければ、それは本当のおかげには育っていきません。そこでです私共がそれこそ一文二文と貯め上げて行くと言う様なおかげを、私共がどういう風に頂いたら良いか。皆さんこうやって朝参りが出来て修行があっておられて、朝起きる時にどうでしょうか、目覚ましの具合は。もう目が痛いごとあるしるしい、とするとそれは本当の事じゃありませんから、そら眠いけれども辛抱すると言う事は大事ですけれどもです。
 例え一時間しか寝とらんでもです、神様に御願いをして休みますと、もう大変有り難い目覚ましのおかげを頂きます。明日もまたどうぞ三時に起きらんなりません、三時半に起きなければなりません。遠方からの方はそうでしょう。ですからどうぞその時間には、有り難い目覚ましのおかげを頂かせて下さい。枕時計がじゃんじゃん鳴りよる。寝むうして堪えんけん、ジンジンを抑えとるちいうごたる事ではいけません。それはジンジンに依って目は覚めたけど、覚めた時の具合が、実に有り難い目覚まし。
 是はもう一時間しか寝とらんけれどもと。昨日私そんなことを話した事でしたけれど。私が今八時まで誰かこう朝奉仕をする。それから下がって九時頃食事をして、それから足を揉んで貰って、それから十二時迄休ませて貰って、それから十二時半頃ここに出て来ると。そして今度は四時半まで奉仕をさせて頂いて、お風呂を頂いてそれからお食事をさせて頂いて、それから又八時のご祈念ですから、七時一寸過ぎにはまた起こさせてもろうて、八時のご祈念にここへ出て来て、九時まで奉仕をさせて貰うて。
 それから私は大体十二時まで起きておる。場合いには二時までも三時までも起きておるですから、昨日丁度上野先生がこちらで御用をしとったから、お話を頂かなかった。他の修業生の方達に、合楽会の中で話しした事でした。例えば丁度私が下がっておる時に参って来る人がある。そすと親先生はと云うと、親先生は休んでおられますからと言う様な事は言いなさんなと私が申しました。
 はぁ親先生が三時に起きると三時半なんてんち言いよんなさるばってん、昼寝しなさるなら誰でん出来ると、仮にその人が思うてご覧。もうおかげは頂かれんよと私が。だから例え休んでおっても、控えに控えとられます、用があるならばお伝えしましょうかと、いう様な風に言いなさいと私が。そして私がですこの頃から十三日会の時に、秋永先生が今四時間か、四時間半しか毎日休まんと。もう夜通しに徹夜の様にして、御用が一杯にあるという話をしておられましたがです。
 本当に四時間なら四時間、四時間半なら四時間半、正味休ませて貰えば、本当の二十時間と言う事は、御用が出来るという確信が出来て来るということはです。とても一遍二遍で出来る事じゃなかて。私はそれを聞き乍ら、よか稽古をしよるなぁと思うた。今は忙しかけんで、自分が手をそれに注ぎ込まにゃ出来んから、その二十時間という時間は、自分が何も彼もしよるけれども、それが段々おかげお頂いて、自分の体が楽に出来るごつなったら、二十時間と云う時間は。
 神様の御用に打ち込んだっちゃ、四時間しか寝らんでよか、四時間半しか寝らんでよいと云うものが、ちゃんと出来ておる。その稽古をしよる。私共はこれは絶対ですけれども、例えば昼寝をさせて頂いた時間だけは、必ず晩にテレビなっとん見よるです。今節約の折ですからね、深夜劇場なんかも見ませんけれども。これは一番判っておられるのは、繁雄さんとか私の家内とか、高橋さんとか文男さんのごと、夜も夜中もない様にして、御用を頂く人でなからにゃ判らん私がどの位寝よると言う事は。
 そりけんちゅうちから、私は寝よらんばのち言うて、言い訳する意味じゃないけれども、親先生は、昼に休んどりなさると言う様な風に云うと、その人がおかげを落すと私が。私が段々段々本当な事になってきてです。それこそ金光様の様に、御神前の奉仕だけで、私が奉仕してもその時は、既に何時間休めば体がもてるだけの稽古が出来ておる。だからそこ辺を、昨日どう言う事だったからかそんな話しをした事でした。私は皆さんの様に普通で七時間も寝らにゃん、八時間も寝らにゃんて事は絶対寝よらんです。
 何時でも五時間なら五時間寝れば何時でもがおかげを頂けると言う様な中にありますから、それこそ夜通しの時もあるし私は夜中にここに必ず御祈念に出て来ると言う事やらも、家の者だけそれも一部しか知らんでしょう。特殊な事ですから神様から夜夜中に、色んなお知らせ頂くと私はすぐここへ出て来てご祈念しよるです。ですから親先生は四時間なら四時間五時間なら五時間寝られれば良いと言う事になってますけれども。
  先日文男さんどんが、日田の共励会の晩なんかは、丁度三時まででしたからもう三十分しかないです休むのが。だからその三十分でも私はどうぞ休ませて頂くようにお願いするです。そして有り難い目覚まし。本当に三時間も四時間も寝たごたる気分で目が醒めるです。だから皆さんそれを願いなさらにゃいかんです。明日の朝のご祈念にお参りします。どうぞ、有り難い目覚ましのおかげを頂きますように。それでもまだ眠かったり、しるしかったりするなら、まだ願い様が足らんと思うてです。
 是は事神様の喜んで下さる事になら、絶対おかげを下さるなぁという確信を、それこそ一文二文と貯め上げて行く様に、それを自分の信心の確信にしていかなきゃいけないです。今秋永先生が四時間半寝りゃ、人間はやっていけれると言う事を、もっともっと稽古して行きよる内に出来るだろう。出来て商売の方なら商売の方が、子供の方に任せとたっちゃよか、店員に任せとたっちゃよかというごつなった時にです。
 初めて四時間しか寝らんで良いものが出来とるから、二十四時間は神様の御用にでもお使い廻しが頂けると言う様なおかげが頂ける。その稽古を今させて頂いておる。そこんにきが私は一遍にそげんなれると言う事はないけれどもです、一文二文と貯め上げて行くという様な信心なんです。成程神様は普通の時に起こして下さいとか、有り難い目覚ましをと言うて願っても、おかげは頂けんけれども。
 事朝参りの事に限ってだけは、神様はこげんも気分よう目覚ましのおかげを下さる事が出来れる、そういうおかげを体験していくと言う事がです、そういう神様の働きをです是に実感していく。そういう神様の御働きの催しの中に、私供が信心の稽古をさせて頂いてさえおればです。その信心が本当なものになって来るに従って、本当なおかげが伴うて来るというおかげを頂くと言う事がです。
 一年遅れて分限者になる様な気なる事なんです。信心は出来んのにおかげだけはヤアヤア言うて、拝み倒すように拝んでおかげを頂くと、それでもそんなら、云うたからというておかげを、下さる訳はないけれどもです。というて神様のご都合ですから、信心は出来とらんでもおかげを、下さる場合もありますがです。先日上滝さんじゃないけれども、四人の息子達が本当に親孝行で、本当にそりゃこたえんごと、むごうやるような風です。親先生、おかげ頂いておりますと言うけん、私が上滝さんに云いました。
 あんた家にはあんまり息子達の上にでも、何かにおかげを頂き過ぎとるけん、おかげで信心が出来んのち、私が申しました。どうですか一遍に分限者になった訳なんです。そりゃそうです未だ三十三歳ぐらいですかね、主人があれだけの打ち込みをして、あれだけおかげを頂いてコロッと亡くなった。
 それからの難儀というか修行というか、又そういう御霊の働きも有って、こういうおかげを受けておると言う事は、自分にも薄々感じておるようですけれども、それを信心にもって表そうと言う事は出来ん。是で一遍に分限者になったつが、却って分限者になったおかげで、信心が出来んと言う事になっておるのじゃないか。だからおかげと言う事は大した事はないです。
 二三日前、昨日高芝さんが来てから色々な話しからでした。先生昨夜テレビ見なさったですかと。うん私は大体十二時ごろまで見よったよち言うたら、五百億のバ-か何かをしておられる人がテレビに出ておった。それで五百億ちその百分の一でもよかち他の人達が云いよりましたがね。それだけの財産を持っておられてどうですか。全然実感として感じませんち。私のそれこそ一文二文と貯め上げたのではなくて、ただ土地を買うとったのが、当たってからの財産ですから。
 五百億持っとったっちゃいっちょん実感として、自分な五百億も持っておる分限者の徳といった様なものは感じていない証拠に、外人の御主人だけ十四回替えちゃる、その人は。その都度都度に大変な苦しみであり悲しみである。まあ一回くらいは私よりか十少ないと言いよんなさったから五十一歳です。もう一遍くらいは恐らく結婚するでしょう。結婚する度の楽しさは有ろうけども、別れる時の苦しさというものは、それは言葉に言い表す事の出来ない程に苦しいとこう言う。
 幸せではないでしょう五百億ですよ女で。分限者の徳と云うものはそうじゃない。だからお互いが本当に人より一年遅れて、そういう濡れ手で粟の掴み取りをすると言う様な、根性が神様の気感に叶わんです。そるけん一年一年と云うか又は一文二文と、よくこういう言葉で云っておられますが、一文二文と言う所をです、私共が信心の例えば私の寝る時間のことでも例話を聞いて頂きました。
 又は休ませて貰う時に、どうぞもう後一時間しかございませんけれども、どうぞ安眠のおかげ頂かせて下さい、後一時間後に又起こして下さいと言う様な時であってもです。御願いをして寝むとたった三十分か一時間しか寝とらんけれども、四時間も五時間も寝たごたる気分がする。だから目覚ましが有り難い目覚ましになって来る。そういう心を神様に向けておる時である事は、神様が聞いて下さると言う事を、私は一文二文貯め上げて行く様な信心だと思うです。
 そこで私共のなす事する事の全てが、神様の気感に叶う様な願いであるならば、是は必ず聞き届けて下さるぞと。朝目覚ましのおかげの事だけではない、全ての事が神様がお喜び頂ける様な事ならば、どういう大きな事でも聞いて下さると言う事が、一文二文貯め上げて行く様な信心からしか身についてこない。そこで億万長者にならせて頂いてもです。その億万長者の内容と云うものがです。それこそ有り難い有り難いという中に、より徳積みの信心がで来て行くだろう。
 有り難い有り難いと言う事は、お礼参りの信心という意味に頂いて頂いてもいいです。おかげは頂いとります本当おかげ頂いとります、お参りも出来ん。それじゃおかげのおかげで、信心が出来んと言う事になるでしょうが。私共の心の中に是は私自身有ったです。本当にやっぱり借金で、もう頭が一杯又借金の断わりに行かにゃならん、術ない事である。そういう時に例えば百万円の宝籤でん、ほんに当たったら良かろうと思うた事も有った。神様に御願いをした。
 ある時電車の中で私がそりばあんまり思いよったからでしょう、宝籤の番号をお知らせ頂いた。しかしその番号はどこに有るか判らんけれどもです。そしたらやっぱり開票の時に、そしたら一番最後のとがいっちょ違うとった。本当に朝参りをして帰って来るですね。帰って来る道々に、最後に自転車も無くなったから歩いてお参りをする。ほんにここ辺に金が百円でん落てとるなら、それこそ今の私なら、恐らく警察に出さんじゃろうち。落てとらせんじゃろかと云うごたる気すら起こった時代が有ります。
 勿論あぁこげな馬鹿な事を考えよると思うて、それこそ頭打ち振ってです、唯一心にお縋がりしましたけれどもです。それこそ濡れ手で粟の掴み取りをする様な心が有る証拠です。けれどもそういう心掛けではおかげにならん。そういう心が段々無くなっていくのが、一遍に無くなるとは思われません。それこそ一文二文という信心。人より一年遅れてという様な心掛けからしか出来てきません。
 そういうものが出来て本当に濡れてで粟の掴み取りになると言った様な事やらは、それこそサラサラ無くなってしもうた頃です、おかげをガバガバどがしこ頂いても、それを本当に有り難いだけでは無くてです。はぁ分限者の徳とは、こういうものであろうかと思うて有り難いです。ですから勿論それを私しする事も有りません。是は財産のお金の事だけではありませんけれども。
 本当に今日が、食べて行けたというか、今日が立って行ったというかと言う様な、私はおかげを頂いておるなら、それが最高のおかげとして頂いて、私共がより本当なことが、一文二文貯めて行くような信心体験からです、本当なものになってきた時に、神様が下さるんだという行き方は、人より一年遅れての分限者にならせて頂くと言う様な心掛け、そういう人の上に遅いどころか、此の頃もブラジルから帰って来た人の話。まだ樺目時代でしたから云うならば、十八年目に私と会ってです。
 私が若うなっとる。顔が艶々しとる。やっぱり儲けださっしゃる人は違うという訳です。その十八年間にです。例えば私が儲け出したとするならば、儲け出させて頂く徳とか、力というものが、伴うて来るのだから、信心は愈々益々強うなるばっかり。云うならば信心は本当に、私共は金光様の真似させて頂いとる訳ですけれども、本当にその真似が一分ずつでも、二分ずつでもです。金光様に近づいて行きよる精進努力というものを、一生懸命させて貰いよる。
 それは寝る時間なら寝る時間と言った様な事の中からでも、一生懸命頂いておる。段々年をとって行くに従がって、例えて云うならば御結界奉仕の時間が、段々少なくなっていく。それこそ寝とる時間の方が多なってくる。という様な事で無くて私の場合は反対です。是は金光様に一歩でも近づかせて頂きよる精進。おかげを頂けば頂く程そこん処のおかげ、おかげと頂けば頂くほど、日参り夜参りそれこそ教会に浸ってでもという様な、おかげになってこにゃいけん。
 そういう神様に喜んで頂くような願いを持って、それでも一遍にという訳には行かんけれども、一分ずつ二分ずつそれに近づいていけれる。先日私は善導寺のお節の時に、久留米の総代さんの播磨さんが見えておった。寅年寅年と言いよるから、私と友達とばっかり思うておった、あんまり若いから。ところが何、私より一廻り多いち言う、善導寺の親先生よりも一つ少ないだけち。あらそげな事ですかと云うて私は改めて、又あの人の信心を見直す気でした。
 それが二三年前中風で倒れられえました。そしてあれ以来というものは、私の体は神様のもの、皆さんもご承知の様に、それこそ今筑水信徒会の会長をして、それから久留米の総代。然も出社があんなに沢山有るけん、そこん処のお勤めなんかに、こうして出掛けておられる。もう自分の御用という事は全然出来無くなった。所が不思議な事に、息子が信心するようになった。しかも息子に何もかも委せきって良かごとなった。私が教会の御用をさせて貰や、ただ御用だけさせて貰うときゃ良い。
 然ももう七十二でですそれこそ、老いて益々盛んと言う様な心が起きて参りましてから、元気で御用が出来ておる。神様に喜んで頂く事なら、そういうおかげになって来るです。もう七十になったけんでヤレヤレ隠居しようてん何てんちゃ、いっちょん思うちゃない、だから願いの焦点というものが、神様に喜んで頂く事ならばです。必ずそれは一遍じゃ出来んけれども、一文二文と貯め上げていく様にして、神様を確実に頂いていく稽古をさせて頂くならです。
 神様のおかげで出来ておるという実感も出来て来てです。神様に喜んで頂ける様な行き方が、生涯出来る様なおかげが頂かれる。人より一年遅れて分限者になると云う、それは心掛けであって、実際は私が十八年前に私は人より遅れてから分限者になっておるかと云うとそうではない。それこそその時には私よりうんと先に行っとった人がたくさん有ったでしょう。けれども私の友人なら友人の中でです。私がしこ儲け出ぇとる者が居るだろうかと思うです。
 ほうら大坪君、あんた位な商才を持った人間が、こげなこっじゃとてもどんこん出来んけんというて、とても忠告をしてくれた友人が有りました。本気で。けれども一文二文貯め上げて行く方が楽しかった。そして一年に一遍くらいその友人が来てくれますけどね。本当にあの時あげな事があったがのう。そしてあんたが一生懸命神様神様ち云うていきよったがと云う、その神様神様というのが、只拝み倒しの信心ではなくて一文二文と貯まっていく、その楽しみが、それであったと言う事。
 そこん処のおかげを私は頂いておる。私の心の根性の中にそれこそ人がどんどん儲け出しよると、何か羨ましかごたる気がする。もう私だんこっちから見よって危のうして応えん。今あの人達が儲けださっしゃったらどうなるじゃろうか先は。それこそ先の事は判らん人達の無謀な、それこそ危ない危ないと言う様な気しかせん。けれども信心の徳が力がないと何かそげんとが羨ましいごたる気がする。だから神様の有り難さを1文二文貯め上げ行く処に、楽しみを持たせて頂く様な信心をです身に付けて行きたいと思うですね。
   どうぞ。